みょうがの旅    索引 

                    

 小園安名と相曽誠治が果たした役割
        (世界戦略情報「みち」平成16年(2664)5月15日第184号)

●本号「常夜燈」に紹介されている相曾誠治(一九一〇~一九九九)は小園安名大佐との間に義兄弟の契りを交わしたほどの親密な仲だった。
 相曾誠治は昭和一八年七月二六日に富士山頂において、「一日も早く陛下のそばから禍物(まがもの)が手を引きますよう、すみやかに戦争が終息して陛下の民草が外地で無駄に命を落とすことがないよう」に祈って、山上神事を修している。趣旨に賛同して全国から集まった有志の参加者は十数名。その中に、駐イタリア全権大使から翼賛会の代議士に転じた白鳥敏夫や陸軍の某大佐もいた。すでにこのころ、独学の神道家相曾は神界から直接に指導を受けるようになっており、富士山頂の大祓神事もその神界からの指示であった。
●その結果、霊界からの反応が確かにあって、世界大戦が終熄に向かったと相曾自身はいう(『超古神道Ⅰ サニワと大祓詞の神髄』)。

 極秘の神事でしたが、霊界の反応がすぐありました。富士山の真裏に当たりますイタリアのベスビオ火山の霊界が富士神界に連動したのです。日本とイタリアとは同じ火山国で非常によく似た環境です。富士山頂の神事が即座にベスビオ霊界に反映し、イタリアで大変な騒ぎが持ち上がります。なんとバドリオ将軍が反乱を起こし、ムッソリーニを逮捕したのです。これがきっかけになり枢軸三国の結束は崩壊します。やがて日本の敗戦につながりました。
(同書一四七~一四八頁)

●ところが、参加者の中に特高の刑事が紛れ込んでいて、密かに戦争早期終結の神事を行なったことが東條首相の元にまで通報された。そのせいか、相曾に召集令状が来る。当時、相曾は軍需省に勤めていて、同省に勤める者は召集されないのが普通だったから、異例の事態である。心配して友人の陸軍大佐が東條首相の側近に話を付け確かめると、果たして東条のブラックリストに相曾の名前が載っていた。相曾は海兵団へ一兵卒として入隊することになる。
●いよいよ横須賀軍港から出発という直前、朝四時に医務室に呼び出され身体検査を受け、「こんな体では兵隊になれん」と追いだされる。訳が分からず、真っ暗闇の中を営門の方へ歩いていくと、金モールを光らせた高官が待っていた。

 近づいてみると、なんとわたしと義兄弟の契りを結んでいた厚木海軍航空隊指令の小園(こぞの)安名(やすな)(一九〇二~一九六〇)です。わたしが鉄砲玉にされては惜しいということで、じきじきにもらい下げに来てくれたのです。(一五二頁)

 小園は相曾に働いてもらう部署があると、そのまま厚木航空隊に連れて行く。

 小園大佐は陛下に厚い忠誠心を持っており、国情を憂えていました。そしてひそかに原爆の研究を続けており、わたしに手伝わせようともくろんでいたのです。
「おれは根っからの軍人で科学には素人だが、どうしても原爆を開発したいのだ」
「どうやって造るんですか」
「それをおまえに頼みたいんだよ。てっとりばやく神様から教えてもらいたいのだ。だから鎮魂法を伝授してくれないか」
「そんな簡単に鎮魂できたら苦労しませんよ。ただ、そこまで熱心におっしゃるのでしたら手ほどきだけはいたしましょう」

●相曾によると、「その後、小園は研鑽を積み、小型の原爆をどうにか完成させます」とある。戦後無期禁固刑に処せられた小園は刑務所を転々とさせられ、どこにいるか家族にも分からなかった。真の国士が國賊呼ばわりされて刑に服しているのが無念で、相曾は毎日神に祈願した。昭和二四、熊本を訪れられた陛下から小園の妻に「小園は今どこにいる」との御下問があった。妻も答えに窮した。その居所を突き止め、解放されるよう図られたのは、陛下御自身であったと、相曾は書いている。
 小園と相曾、危急存亡の秋に果たしたこの二人の得意な役割と交誼の意味をいま改めてじっくりと噛みしめてみたいものである。

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