みょうがの旅    索引 

                    

 大和へ、そして吉野へ 1
 (世界戦略情報「みち」平成21年(2009)1月15日第286号)

●先に宮内庁から主上御不予の原因が「御心痛」であるとの発表があった。その御心痛の内容をあれこれ論うことは厳に慎むべきだと思われる。ただ、どのような御無理から陛下が御心痛を感じておられるのか、一人の民として止むにやまれず思いを巡らしてしまうことまでは禁じがたい。
 今上陛下の御心痛の原因かどうかは定かではないが、陛下に御無理をお願いしている最大のものは、この東京に期せずして長々と御滞在をお願いしていることであり、これに勝る御無理はないのではないかと愚考する。
●そもそも、江戸を東京と改称はしたが、それは「遷都」でも「奠都(てんと)」でもない。「東京遷都」あるいは「東京奠都」なる詔は存在しないのだ。
 慶応四年(皇紀二五二七)七月一七日、「江戸を改めて東京と稱する詔」が出された。

「朕、今万機ヲ親裁シ、億兆ヲ綏撫(すゐぶ)ス。江戸ハ東國第一ノ大鎮、四方輻湊(ふくそう)ノ地、宜シク親臨以テ其政ヲ視ルヘシ。因テ自今、江戸ヲ稱シテ東京トセン。是朕ノ海内一家、東西同視スル所以ナリ。衆庶、此意ヲ體セヨ」(『みことのり』平成七年、錦正社)

 これを「東京奠都」の詔とする誤解が一部にあるが、この詔の趣旨は江戸を東京と改称するということにある。「奠都」を指示した詔と解するのは謬りである。ただ、東京とは「東の京」、つまり「西の京」に対する「東の京」だという含意があるのは否めない。「京」の字を使うからには、江戸を「みやこ」としたいとの意がある。だが、明確に江戸へ遷都ないしは奠都すると宣言できない事情が当時はあったのである。その苦衷が「衆庶、此意ヲ體セヨ」との文言になったのではなかろうか。
●江戸東京改称の詔が出された翌月、八月二七日に明治天皇御即位の宣命が発表された。そこには、はっきりと

「掛けまくも畏き平安京に御宇す倭根子天皇が宣りたまふ」

とあり、天皇が御 宇(あめのしたしろしめ)すのは平安京、すなわち京都であることが紛れもなく示されている。「みやこ」は依然として京都であった。
 ところが、同年九月八日に改元の詔を発して「明治」と改元されたのも束の間、明治天皇は同月二〇日には東京へと「行幸」される。「行幸」とは天皇が一時的にご旅行されることで、ご旅行が終われば、当然京都へ還幸される。御滞在が長くなる場合は、仮の御殿を建てた。それが「行宮(あんぐう)」である。
 明治天皇は京都御所の御側近の方々には、「ちょっと行ってくる」と洩らされたとも伝わっている。明治天皇にとっては「関東が大へんそうだから、ちょっと行って面倒を見てやろう」というほどのお気持ちだったに違いない。以来一四〇有余年、われわれが不甲斐ないばかりに、主上に東京行宮という仮の宿に御滞在しつづけて戴いているのである。この御無理は速やかに改めなければならない。
●なぜ、東京が「みやこ」であってはならないのか。最大の理由は、東京では霊峰富士を東に遥拝できないからである。天武天皇の吉野滞在をはじめ、持統天皇三一度の吉野行幸、後白河法皇の吉野行幸など、歴代の天皇が危機に際して吉野へと向われたのは、霊峰富士を遥拝され、皇祖皇宗に御祈念されるためであったのだ。いまわが国は主上に「御心痛」を余儀なくするほどの危機にある。この危機を打開するには、まず主上に大和へ、そして吉野へと御還幸して頂くのが先決なのである。

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