みょうがの旅    索引 

                    

 熱田宮裁断橋と雲州松江藩堀尾氏の盛衰 
       (世界戦略情報「みち」平成25年(2673)4月1日発行第379号) 

●今となっては遙か昔になるのだが、本誌35号(平成九年八月一日刊)にて「母の祈りと男の使命」と題し裁断橋について触れたことがある。裁断橋とは、尾張熱田神宮の近くにある精進川に架かっていた橋で、都々逸にも詠われ、保田與重郎『日本の橋』にも採り上げられた名所である。本誌支援者の一人半田高行氏の母上が息子友人藤原源太郎に宛てた手紙を見せてもらったとき、図らずも裁断橋を架け替えた堀尾金助の母のことを想起したのだった。
 裁断橋の擬宝珠(ぎぼし)に刻まれた銘文は、

てんしやう十八ねん二月十八日おだはらへの御ぢん、
ほりをきん助と申す十八になりたる子をたゝせてより、
又ふためとも見ざるかなしさのあまりに、
いま此はしをかける事、はゝの身にはらくるいともなり、
そくしんじやうぶつ給へ、
いつがんせいしゆんと、後のよの又のちまで、
此かきつけを見る人、念仏申給へや、
卅三年のくやう也」

と、子を思う母の気持ちを切々と伝えている。ふつう漢字で記されて意味が分かれば読み過ごしてしまうであろう、「てんしやう十八ねん」「らくるい」「そくしんじやうぶつ」「いつがんせいしゆん」などの言葉が仮名で記されているために、そこから「たまこと」が馥郁として揺らぎ立つかのようである。「天正」というただ年号を表示するだけの言葉さえ、「てんしよう」と書いてあると、その意味よりもむしろ意味を表示するために動員された「てんしよう」という音韻が意味を伝えた後にもなお読む者の胸に残り、あの時代の様々な出来事を彷佛させながら、音韻そのものの呪術的ともいうべき余韻を引いて長く響かせるのである。そして、その余韻に浸っていると、読む者の身内に深く熱い共鳴が、ゆくりなくも広がってゆく。この裁断橋の銘文を読む者はかくて、優しくも、ひたむきな母の心情にまざまざと共振するのだ。
●裁断橋も精進川も区画整備やら何やらで今はなくなってしまったが、堀尾金助の生地である愛知県丹羽郡大口町の堀尾跡(ほりおせき)公園には、五条川に裁断橋を再現して堀尾金助とその母を偲んでいる。毎年四月の第一日曜日には桜の開花に合わせて「金助まつり」を催行しているという。
 ところで、堀尾金助はただの軽輩・足軽の子供ではない。金助の父の堀尾吉晴(よしはる)(一五四四~一六一一)は中村一氏や生駒親正と共に三中老に任じ晩年の豊臣秀吉を支えたが、関ヶ原の合戦では東軍に与して次男忠氏(ただうじ)が戦功を認められ、出雲国富田城(尼子氏旧領、月山富田城)二四万石に封ぜられた戦国の猛将だ。早逝した金助はその嫡男である。裁断橋擬宝珠の銘文に日本の母の心情を残した金助の母は津田氏の出で、「大方殿(おおかたどの)」と呼ばれ敬われたとされるが、実名は伝わっていない。元和五年(一六一九)の没という。天正一八年(一五九〇)の小田原征伐における山中城攻めで戦傷を負って死んだ金助の三三回忌に先だって亡くなったものと思われ、恐らくは前々から供養のための銘文を用意して置いたのではなかろうか。哀れなることである。
●もともと堀尾氏は尾張国丹羽郡御供所(くごしょ)村(現大口町)を本貫とする土豪であり、吉晴の父泰晴(やすはる)が岩倉織田氏に仕え重きをなしたが、織田家傍流弾正忠家の信長に主家が滅ぼされ吉晴は浪人となる。後には信長家臣の木下秀吉に仕え数々の軍功を立て大名となった。
 出雲・隠岐二四万石を領した堀尾吉晴・忠氏父子は新たな居城を宍道湖(しんじこ)畔に築造し、江南呉国の松江に(しようこう)因んで「松江(まつえ)」と命名する。以後出雲国堀尾氏は「松江藩」と呼ばれることになるが、忠氏が慶長九年(一六〇四)二七歳で若死にしたため、すでに隠居していた吉晴が孫忠晴(ただはる)五歳の後見となっている。雲州松江藩の初代藩主は堀尾忠氏だが、実質的な初代は吉晴であろう。松江藩堀尾氏は三代忠晴に子なきゆえに断絶となるも、因州倉吉で鉄問屋を営んだその末裔の娘おりんが岩室(いはむろ)宗賢(そうけん)に嫁いで娘おつるを産み、おつるが光格天皇の御生母大江(橘)磐代(いわしろ)となる。 

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